酷暑の中でのゴルフ(クウェイト編)

今年の夏はひどい酷暑でした。観測史上初めての記録を更新しています。前回は酷暑の中での草刈りの記事を掲載しました。投稿の中に中東生活を思い出すとの話を頂きました。そこで私も約30年前にクウェイトに1979~1981年に駐在していたころ、酷暑の中ゴルフをして楽しんでいたことを思い出しここに思い出を書く事にしました。クウェイト国はアラビア湾(ガルフ湾)の一番奥に位置し、面積は岩手県と同じほぼ広さで人口は当時150万人(内純粋クウェイト人50万人、他はアラブ人、インド、パキスタン、韓国など外国人労働者)の国で主たる産業は石油生産・精製でした。建設ラッシュでしたので外国人労働者がおおぜいいました。気候は3月から10月まで全く雨は降らず夏場は50度を越える日々が結構続くというまさに乾いた気候環境にあります。そんな中家族ともども駐在をしました。夏場といっても4月か5月からかは忘れましたが、10月?くらいまで夏時間帯での勤務で朝7時~午後2時まで仕事をしていました。
クウェイトの町は日中50度を超えると外での労働は禁止されていました。またクウェイトは敬けんなイスラム教の国でしたのでアルコールは一切禁止、豚肉も禁止ということで娯楽のない国でした。私が赴任した時の所長はゴルフが好きでした。事務所のあるクウェイト市内から車で東に約1時間行ったところにアハマデイという製油所があり、もともとその製油所を作ったイギリスの石油会社BPが、娯楽のために砂漠(土漠・・・サラサラした砂のイメージではなく乾いた土が固まった状態)にゴルフ場を作りそこで楽しんでいたようです。普段は日本人には貸してくれないのですが、ウイークデイには使わせてもらっていました。午後2時に仕事を終えると、所長がサア行くぞ、着替えろと言われて事務所で短パン・運動靴(底は模様のないもの)・タオル・水筒・ゴルフセットを持ってゴルフ場に直行。午後3時半くらいにはスタートできたと思います。ゴルフ場は18ホール緑はユーカリの木くらいしか無く、砂漠にタールをまいて作ったフェアーウェイ、そこを外れるとラフでこれは砂漠のままでほとんど転がらない状態です。テイショットを打ってフェアウエイに転がれば持参した30センチ四方の芝のマットを使って打てます。ラフに入ると使えません。バンカーショットと同じで飛びません。ナイスショットをしてもフェアウエイにある石ころに当ってラフに飛び出てしまう事は日常茶飯事でした。何とかグリーンにたどり着くと色はブラウン即ち芝ではなくて、グリーンをまねてコールタールを固めその上にサラサラの砂をまいて整地したものです。感触はかなりグリーンに似ています。でも足跡は付きますし、ボールも転がった跡が付きます。したがってホールとボールの間を歩くこことは禁止でした。(という訳で運動靴の底は模様の無いものを使用)しかし同じラインにボールがあると次の人はラインが読めました。ホールのプレイが終わるとインド人??らしき人が野球場ので使うトンボで靴の足跡・ボールの跡など荒れたブラウンを整地していましたね。4時過ぎても気温は40度ははるかに超えて、湿気ま全く無くサウナのような状態でした。キャデイはいませんから自分でトローリー引いてプレイ、途中休憩所もありませんから持参の水筒で冷たい水を飲みながら一気に18ホールプレイをしました。勿論汗はたくさんかきますが、外気に接している体は水分が蒸発して塩が吹きます。そんな厳しい状況下でのゴルフでしたが、私たち駐在員とっては楽しみな娯楽の一つでした。プレイを終えてハウスに戻った時の冷たーいオレンジジュースは本当に幸せな気分でした。(ビールが飲めたら最高ですが残念ながらアルコール類は全く入手不可能)そんな生活をしてきましたので、日本の今年の酷暑でもさほど気になりませんでした。ただ湿気が多い分辛いですが、今思うと皆よく熱中症にかからなかったものだな?と思います。今回は文書のみですが、これを見て当時の事を思い出す読者もいるのではと思います。ご要望があれば、自然・生活・仕事・文化・スカウトの話とかをまた書きます。ご意見や思い出を聞かせてください

ついでに思い出しました。当時日本人仲間でよく歌った歌を「ホルムズ海峡砂景色」です。
1)成田発の夜行便を降りたときから クウェイトまち砂の中
  街を歩く人のむれは誰も無口で  ひげづらばかり見えました
  私もひとり連絡便にのり     眠たそうなラクダ見つめないていました
  アーアーホルムズ海峡砂景色
2)ごらんあれがオマン岬南のはずれと 見知らぬアラブ指をさす
  湿気にくもる窓のガラスふいて見たけど はるかにかすみ見えません
  さよならあなた クウェイトに゙帰ります 砂の音が胸ゆする泣けとばかりに 
  アーアーホルムズ海峡砂景色

  (元歌はアブダビのようです。アブダビは湿気が多いですがクウェイトは湿気はありません。念の為)
  

酷暑の中でのゴルフ(クウェイト編)」への5件のフィードバック

  1. SECRET: 0
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    [色:0000FF]色付きの文字[/色]今は昔の懐かしいお話ですね。クウエートに行ったことがないので、興味深く拝読しました[絵文字:v-218]また色々なお話を聞かせてください[絵文字:v-206]楽しみにしています[絵文字:v-198]

  2. SECRET: 0
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    クウェートに赴任する時、妻は妊娠していました。赴任した年の8月に長男が生まれました。社内規定で日本で妊娠した子供は生後6ヶ月を経ないとクウェートに連れて行けませんでした。よって僕はその時期になるまで待って帰国しました。なので長男を初めて抱いたのは成田空港でした。二番目の子供(長女)は妻がクウェートで妊娠しましたが日本で出産したため、長男と同様、成田空港で初めて抱きました。今、二人は30歳と28歳です。だだ二人ともクウェートの記憶は全く有りません。

  3. SECRET: 0
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    ホルムズ海峡砂景色!
    思わず、頭の中で歌ってしまいました。
    その情景が、クェートに行った事もないのに思い浮かぶような気がしました。
    気温や環境などちょっとつらめな赴任のようでしたが、良い思い出ですね[絵文字:v-410][絵文字:v-343]

  4. SECRET: 0
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    赴任以前のシニア隊長時代は、それこそご多忙のさ中で、ほとんど毎日のように銀座や六本木などでの接待漬け、週末は隊集会に団行事などで顔色も体調も悪く、夜の隊集会ののちについに胃腸炎を患われてそのまま入院、夏期キャンプは欠席…なんてこともありましたしね。
    赴任されて1年くらいは慣れない砂漠暮らしに、ストレスもあったでしょうけど、朝早く昼過ぎにはオフ、お酒も接待もなし、家族との時間も十分にあって、懐具合も危険地区手当がどーんと出て、すべての充電期間ではなかったかと思います。
    千葉でRSとして過ごしていた僕らも、ちょっと寂しくはありましたが、「なんとなく静かになって落ち着いて活動が出来るよね…」と松ヶ丘さんなどと謳歌していました。
    中東には、その後ヨーロッパを一人旅した時の帰りの飛行機でバーレーンにトランジットしただけですが、同じ給油休憩で立ち寄ったアラスカとか香港とかとは全く違って、ともかく慌ただしく給油だけしたらさっさと立ち去ろう…という意識が強かったです。
    空港内でも金属探知器があり、何も隠していないのに反応して「ビー」となったときはビックリしました。あのアラブの怪しい係員に「コッチだ…」と顔で合図されたときは、本当に血の気が引きましたよ。
    ボディチェックで何も出てこず(当たり前ですが)無罪放免になったとき、「ああ、これで父母の待つ日本に帰れる…」と捕虜兵の帰還の如く涙が出てきそうになりました。
    それほど、中東って異文化?

  5. SECRET: 0
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    ノムサンのブログを拝見させていただき、クウェイト時代のことを懐かしく思い出しました。特に、今年の夏は酷暑で、炎天下の下でゴルフを数回して、クウェイトで40数度の中でゴルフをしたことを思い出していたところです。今回、ブログを拝見させていただき、アハマディのKPCのゴルフコースやハンティングクラブのコースで、皆様、大使館の同僚、家族等と楽しくゴルフをした頃を更になつかしく思い出しました。あの頃、ゴルフをおぼえたことが、現在でもビジネスに役立っています。
    あれから、もう30年近く経ったのですが、光景が鮮明に思い出されます。

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