1月20日東京巣鴨にあるとげ抜き地蔵尊に初詣に行きました。某石油会社の仲の好い同期3人と昭和49年から55年まで本社にいた頃の女性の同期とその仲間と半年振りに新年会を兼ねて行きました。筆者にとっても名前は知っていましたがかつて行った事がない場所でしたのでとても楽しみにしていました。しかし当日は35日?も雨が降らなかったのに残念ながら雨に降られとても寒い初詣となりました。巣鴨駅を降りて一路巣鴨商店街へ。
商店街の入り口に江戸六地蔵尊の一つ、真言宗豊山派醫王山東光院眞性寺というお寺がありました。
ここはかつて中仙道の玄関口だったのですね。
歴史探訪会に所属するOさんの解説をここで聞きました。なるほどという感じです。
江戸六地蔵・・・江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に地蔵菩薩像を造立した。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである。
鋳造は神田鍋町の鋳物師、太田駿河守藤原正儀により、像高はいずれも270cm前後である。造立時には鍍金が施されていた(東禅寺の第二番は弁柄色の漆)が、現在では金箔の痕跡をわずかに残すだけとなっている。それぞれの像内には小型の銅造地蔵菩薩坐像や寄進者名簿などが納められていた。また、像や蓮台には寄進者の名前が刻まれており、寄進者は合計すると72000名を越える。
江東区永代寺の第六番は明治元年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈により、旧永代寺が廃寺になり取り壊された。現存する第一番から第五番までは、すべて東京都指定有形文化財に指定されている。
江戸時代5街道があり東海道、中仙道、奥州道(日光道)、水戸街道、甲州街道、とプラス千葉街道の江戸の入り口に地蔵尊が建てられたそうです。この碑に記されています。これとは別にとげぬき地蔵はありました。
かつては芭蕉もこの地をとおり一句詠んだようです。
その碑がありました。
しかし町が近代化しすぎてお寺もかつての面影はありませんでした。そして有名な巣鴨商店街へ。雨降りでしかも夕方なので人影もまばらでした。Sさんにモデルになってもらい記念撮影。
さすが巣鴨とげぬき地蔵尊のある商店街はお年寄りの銀座と言われるだけあってやはりそんな感じのするお店屋さんが多いです。まあ私達も既に還暦を過ぎた仲間達だから年代相応と言えるのかな?商店街に入るとすぐスガモンのお尻のキャラクターがありました。これはとても柔らかくて気持ちが良いです。
説明書きもありました。
しばらく行くととげぬき地蔵尊のあるお寺に着きました。正式には萬頂山高岩寺という曹洞宗のお寺の境内にある地蔵様でした。
山門です。といっても今では都会のお寺の玄関と言う感じでした。お寺の本堂は立派ですが境内の広さはあまり無くチョット想定外でした。
これがかの有名なとげぬき地蔵尊でした。私もお水をかけて頭・腰など自分の悪いところを雑巾で地蔵様を洗ってきました。昔はたわしで洗っていたようです。ごりやくはあるかな?
高岩寺の全景です。
そして有名な赤いパンツ屋さんがありました。このパンツをはくと元気になるそうです。
品定めをする女性達。
今回参加者の唯一の集合写真。おいおい誰かさん何をしてるの?
やはり古くからの町なので至るところに、神社・お寺がりますね。ここは猿田彦神社です。千葉県にも銚子の手前に大きな猿田彦神社がありますね。
そして商店街を抜けるとそこには都内で唯一残っている都電荒川線の庚申塚駅がありました。
懐かしい電車です。筆者が大学時代にも早稲田から三ノ輪駅を運行していました。今は綺麗な電車になっています。古き東京を残す面影があります。オールウェイズ夕日の三丁目にも出てきそうな雰囲気のする町です。
申塚駅のホームにあるこの焼き鳥やさん。Oさんが予約をしてくれて、このお店に入り冷え切った体を暖めました。
その前に時間が早すぎて隣の甘味屋さんにはいりおはぎと熱いお茶を飲みました。因みにおはぎセット(1個)300円でした。
ということで楽しく旧交をを暖めました。
ところで巣鴨という名前のいわれを知っていますか?Oさんにその説明を聞きました。・・・・・・?
是非一度お天気のよい日にブラリ行ったら楽しいと思います。
とげぬき地蔵の由来
曹洞宗萬頂山高岩寺は、約400年前(慶長元年=1596年)江戸湯島に開かれ、約60年後下谷屏風坂に移りました。明治24年、区画整備のため、当地(北豊島郡巣鴨町)に移転し、今日に至ります。御本尊はもとより霊験あらたかな「とげぬき地蔵」として知られる延命地蔵尊です。
_正徳3年(1713年)5月のこと、江戸小石川に住む田付という人の妻は、常に地蔵尊を信仰していました。一人の男の子を出産して後重い病に見舞われ床に臥し、手足は「細き竹のごとく」にやせ細ってしまいました。諸々の医者が手を尽くしましたが、一向によくならず、遂に婦人は臨終を覚悟し、「私の家には怨霊があって、女はみな25歳までしか生きられないと父母から聞いております。姉も25歳で亡くなりました。」といいだすしまつでありました。田付氏は悲歎にくれつつも、この上は妻が日頃信仰する地蔵尊におすがりするほかないと、毎日一心に病気平癒の祈願を続けました。
ある日のこと、田付氏は不思議な夢をみました。黒衣に袈裟をかけた一人の僧が現われ、「私の像(かたち)を一寸三分に彫刻して川に浮かべなさい」という。田付氏は、それは急には成し難いことを答えると、「ではあなたに印像を与えよう」といわれ、夢からさめました。不思議な夢と、ふと枕元をみると、何か木のふしのようなものが置いてありました。よくみるとそれは「彫ったものでも書いたものでもない」不思議な地蔵菩薩の御影なのでした。田付氏は命の通り、これを印肉にせしめて、宝号を唱えつつ一万体の御影をつくり、両国橋へ行き、一心に祈願しながらこれを河水に浮かべました。さて、その翌日朝またぎ、田付氏は病床の夫人の呼ぶ声に急いで行ってみると、夫人は「今、枕元に死魔が現われましたが、錫杖(しゃくじょう)をもった黒衣のお坊さんが、錫杖を使って外にドンと突き出してしまわれるのを見ました」と告げました。田付氏は霊験にわれを忘れていましたが、あれほど重かった夫人の病は日一日と快方に向かい、その年の11月には床を離れることが出来、以後夫人は無病になったといいます。
_田付氏がこの霊験の話を山高という人の家でしていると、一座の中に毛利家に出入りする西順という僧がいて、ぜひその御影を頂戴したいといいました。田付氏は持っていた2枚を与えました。正徳5年のある日、この毛利家の女中の一人が、あやまって口にくわえた針を飲み込んでしまいました。女は苦しみもがくが医者も手の施しようがありませんでした。そこに西順が来たり、「ここに地蔵尊の尊影がある。頂戴しなさい。」といって、一枚を水で飲ませました。すると、間もなく女中は腹の中のものを吐き、きれいな水で洗っていると、その中に飲み込んだ針が、地蔵尊の御影を貫いてでてきたといいます。
こちらは、この田付又四郎氏が享保13年(1728年)7月17日、自ら記して、高岩寺に献納された霊験記の一部です。
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ノムさん、いつも楽しい企画有り難う。それにしてもノムさんは元気ですね。還暦をとっくに過ぎた人とは思えないほど、精力的ですね。初詣のあとのカラオケでの大活躍には吃驚しました。これも日頃多くの人と交わって、刺激を得ているからなのでしょうね!私も見習わなければと思っています。