ちば市国際ふれあいフェステバル開催お知らせ!!

来る2月20日(日)10:00~15:30 千葉市中央区中央「きぼーる」においてちば市国際フライフェステバルが開催されます。同フェスバルは、今年で17回目になります。千葉市の国際交流協会に加盟している団体今年は34団体が参加し、千葉市に在住する外国人や、また国際交流をしている団体がステージや展示・バザーを行うものです。昨年から参加団体の自主運営となり、筆者はこのボーイスカウト千葉地区の参加団体を母体として運営協議会会長、今年で2年目の役割を仰せつかっております。是非皆さん遊びに来てください。
ラテン音楽・管弦楽・ベリーダンスなどのステージの発表や、各団体の展示、竹とんぼ作り、太巻き寿司作りなどの体験コーナー、海外の珍しい飲食物をあり多いに楽しめますので皆さんのお越しをお待ちしています。
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突然の訪問者(スリランカの夫妻)

11月27日朝、竹林の整備に出ようと作業服で玄関を出たところ、近所の国際交流に熱心な Mrs.K、高嶋さんに声をかけられ今日午後に千葉県在住のスリランカの人がが馬来田の公民館に来るので、英語を使うから顔を出してよ、スリランカ風のカレーや料理を作るのでと誘われました。お断りも出来ないので午後4時作業を切り上げ公民館に顔を出してみました。ちょうど調理室で一生懸命チキンカレーを作っておられました。
メルピンさん(男性)とサシワデイさん(女性)でご夫妻でした。この高嶋さんはお金のない外国人の勉強のための里親になっているのだそうです。
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サシワデイさんはスリランカ南部の出身の女性で、現在千葉大学で日本語学の博士課程を勉強中とのことでした。ご主人は現在は妻の勉学を支えるため、船橋でファストフード店のアルバイトをしているのだそうです。
チキンカレー・ポークカレー・ビーンズカレーにコロッケ、パパダン(せんべいのようなもの)、春巻き、混ぜご飯、などいろいろ料理をして頂きました。
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料理を並べて、ご夫妻を囲んで地元の馬来田の人たちとの食事会しました。彼らは、食事は皿にもった食料を手で混ぜて食べるのが普通だそうです。
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食後スリランカのお話を聞きました。スリランカ(元セイロン)はインドの南にある島で面積は北海道の四分の一
人口は約2000万人だそうです。つい何年か前まで、元から住むスリランカ人とイギリス統治時代に労働力としてインドから移住してきたパミール人との戦いがあり、漸く落ち着いてきたようです。教育問題では本当に勉強が出来ないと外国留学など出来ないそうですが、彼女は国内で非常に優秀な成績で日本への留学が認められたそうです。(結婚はスリランカ国内でしなければならず国内で結婚をして二人で来日されたとのことです。)
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今の日本の若者に対し将来の日本の明日を考えると不安がある、特に道徳的な問題が失われていると話していました。確かに、日本の戦後の教育問題はあると私自身も感じました。
帰りに、我が古民家を見たいというので、突然の訪問になりましたが、正に日本の伝統的な建築様式に感動をしていました。明るいうちにくれば好かったのですが、またお出でくださいと伝えました
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玄関をバックに記念撮影
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思いもかけずに、外国の文化に触れることが出来ました。というわけで全く英語は使う必要がありませんでした。是非ご夫婦力を合わせ目標を達成して母国に帰って、日本語と日本の文化を伝えて欲しいと思います。

クウェイトの思い出(アルコール編その2)

世田谷のオカチャンから投稿がありました。文章が長いのでアルコール編その2としました。
確かに国外から出張でクウェイトに帰国する際のお酒の持ち込みは緊張の瞬間でしたね。私も同じ気持ちで何回したか覚えてはいませんが、本当にどきどきしました[emoji:i-1]
厳密な星取表は記録してませんが、勝率7割位と思います。
その中で、非常に危なかったケースを紹介します。中東事務所長と一緒に出張しての帰国時のことです。当然しかるべき数量のアルコールを出張先で仕入れてのドキドキする税関検査でした。やはり、太めの男の検査官のブースを目指しました。検査官「何本か?」所長「1本です」検査官「そうか。1本だな。(穏やかな表情で)「次、おまえは」はい。といって1本(ウィスキー大瓶)見せると、(少し表情を曇らせて。)でも通常は一人各1本位は大目に見てくれる事が多いので、これでパスできるはずだったのが、鞄の中身を徹底的に調べられると、缶ビールがごっそり6缶ほど、発見された。検査官は完全に怒り、お前達は嘘を言った。1本と言ったのに(2本あった。更にビールも有る)悪質だ。空港から帰さない。」といって二人のパスポートを取り上げられて、検査官はすたすたと空港内の事務室の方に向かって歩き始めた。(多分上司に報告等)。これは大変と、所長は土下座せんばかりに「申し訳ない。悪かった。2度とこういうことはしない。許してくれ。」と謝った。私も同じセリフを繰り返した。余計なことは言わず、少なくとも4-5回は2人で同じセリフを繰り返したと思う。すると、検査官の足が止まり、こちらに向かい、5メートル位先からぽーんと二人のパスポートを投げ返し、如何にも汚らわしいといった表情と手先でしっしっと追い払う感じで、「早く行け」。パスポートを拾い、感謝の言葉もそこそこに、ウィスキーも全部鞄の中にしまいこんでそそくさと空港を後にした。つまり結果は勝でした。その後も、注意しながら、持ち込むスリルを味わい続けたのは言うまでも有りません。
実は、翌日に本社の役員の訪問が予定されており、所長のパスポートが無いと大変なことになっていた。ひやひやものでした。中東では、酒に限らず、結構こんな際どい話が多かったように思います。

クウェイトでの娯楽(パーテイ編)

昔のボブさんより第2段の記事が届きましたの紹介します。
娯楽の少ないクウェートで夫婦が楽しめる行事はパーティでした。
日本人忘年会のような大きなパーティもありましたが、最も楽しかったのは数家族を自宅に招いてのホームパーティでした。招く側は料理だけでなく、お酒(ウィスキー)も用意してもてなしました。自家製ワインが披露されることもありました。奥様方はちょっとおしゃれな服装をして集まりました。
お腹もふくらんだところで、そろそろカラオケタイムです。椅子があっても大半の人はカーペットに座って話をしたりしていました。歌は大体ソロでスタートしましたが、そのうちドゥエット曲を夫婦が歌うこともありました。
スローな曲が出るとと、いよいよダンスタイムの始まりです。そろそろアルコールも回ってきています。よその奥様を相手に踊る人がもっぱらでした。べったりとしたチークダンスだったような気がします。終電の心配がないので、お開きは午前1時頃ではなかったかと思います。

クウェイトの思い出(アルコール編)

昔のボブさんから投稿がありました。本人の許可を得て記事として紹介することにしました。
クウェートでは日本人の間で「何勝何敗」という表現をすることがありましたが、これは野球などの勝敗を意味するものではありませんでした。海外に出てクウェートに戻るときに、持ち込もうとしたお酒(アルコール)を空港で没収されなければ「勝ち」、そうでなければ「負け」とした戦績でした。例えば、3勝0敗であれば、すごーいということになります。僕の場合は、通算で2勝1敗だったように思います。
1敗はカイロに出張した帰りでした。ウィスキーを買い、手提げ袋に入れ手に持ったままクウェート空港で荷物検査を受けたら税関にすぐさま没収されました。2勝は一回が家族でヨーロッパに旅行した帰りで、長男をベビーカーに乗せてクウェート空港で荷物検査を受けました。缶ビールをベビーカーのポケットに入れておいたのですが、上手く税関に気づかれず持ち込みに成功しました。もう一回はバハレーンに出張した帰りで、ウィスキー1本であれば税関は多めに見るらしいと聞いていたので、どうせ1本ならと最も大きな(1.5Lだったか)ウィスキーを買ってバッグに入れ税関もそのウィスキーを見ましたがOKとなりました。

酷暑の中でのゴルフ(クウェイト編)

今年の夏はひどい酷暑でした。観測史上初めての記録を更新しています。前回は酷暑の中での草刈りの記事を掲載しました。投稿の中に中東生活を思い出すとの話を頂きました。そこで私も約30年前にクウェイトに1979~1981年に駐在していたころ、酷暑の中ゴルフをして楽しんでいたことを思い出しここに思い出を書く事にしました。クウェイト国はアラビア湾(ガルフ湾)の一番奥に位置し、面積は岩手県と同じほぼ広さで人口は当時150万人(内純粋クウェイト人50万人、他はアラブ人、インド、パキスタン、韓国など外国人労働者)の国で主たる産業は石油生産・精製でした。建設ラッシュでしたので外国人労働者がおおぜいいました。気候は3月から10月まで全く雨は降らず夏場は50度を越える日々が結構続くというまさに乾いた気候環境にあります。そんな中家族ともども駐在をしました。夏場といっても4月か5月からかは忘れましたが、10月?くらいまで夏時間帯での勤務で朝7時~午後2時まで仕事をしていました。
クウェイトの町は日中50度を超えると外での労働は禁止されていました。またクウェイトは敬けんなイスラム教の国でしたのでアルコールは一切禁止、豚肉も禁止ということで娯楽のない国でした。私が赴任した時の所長はゴルフが好きでした。事務所のあるクウェイト市内から車で東に約1時間行ったところにアハマデイという製油所があり、もともとその製油所を作ったイギリスの石油会社BPが、娯楽のために砂漠(土漠・・・サラサラした砂のイメージではなく乾いた土が固まった状態)にゴルフ場を作りそこで楽しんでいたようです。普段は日本人には貸してくれないのですが、ウイークデイには使わせてもらっていました。午後2時に仕事を終えると、所長がサア行くぞ、着替えろと言われて事務所で短パン・運動靴(底は模様のないもの)・タオル・水筒・ゴルフセットを持ってゴルフ場に直行。午後3時半くらいにはスタートできたと思います。ゴルフ場は18ホール緑はユーカリの木くらいしか無く、砂漠にタールをまいて作ったフェアーウェイ、そこを外れるとラフでこれは砂漠のままでほとんど転がらない状態です。テイショットを打ってフェアウエイに転がれば持参した30センチ四方の芝のマットを使って打てます。ラフに入ると使えません。バンカーショットと同じで飛びません。ナイスショットをしてもフェアウエイにある石ころに当ってラフに飛び出てしまう事は日常茶飯事でした。何とかグリーンにたどり着くと色はブラウン即ち芝ではなくて、グリーンをまねてコールタールを固めその上にサラサラの砂をまいて整地したものです。感触はかなりグリーンに似ています。でも足跡は付きますし、ボールも転がった跡が付きます。したがってホールとボールの間を歩くこことは禁止でした。(という訳で運動靴の底は模様の無いものを使用)しかし同じラインにボールがあると次の人はラインが読めました。ホールのプレイが終わるとインド人??らしき人が野球場ので使うトンボで靴の足跡・ボールの跡など荒れたブラウンを整地していましたね。4時過ぎても気温は40度ははるかに超えて、湿気ま全く無くサウナのような状態でした。キャデイはいませんから自分でトローリー引いてプレイ、途中休憩所もありませんから持参の水筒で冷たい水を飲みながら一気に18ホールプレイをしました。勿論汗はたくさんかきますが、外気に接している体は水分が蒸発して塩が吹きます。そんな厳しい状況下でのゴルフでしたが、私たち駐在員とっては楽しみな娯楽の一つでした。プレイを終えてハウスに戻った時の冷たーいオレンジジュースは本当に幸せな気分でした。(ビールが飲めたら最高ですが残念ながらアルコール類は全く入手不可能)そんな生活をしてきましたので、日本の今年の酷暑でもさほど気になりませんでした。ただ湿気が多い分辛いですが、今思うと皆よく熱中症にかからなかったものだな?と思います。今回は文書のみですが、これを見て当時の事を思い出す読者もいるのではと思います。ご要望があれば、自然・生活・仕事・文化・スカウトの話とかをまた書きます。ご意見や思い出を聞かせてください

ついでに思い出しました。当時日本人仲間でよく歌った歌を「ホルムズ海峡砂景色」です。
1)成田発の夜行便を降りたときから クウェイトまち砂の中
  街を歩く人のむれは誰も無口で  ひげづらばかり見えました
  私もひとり連絡便にのり     眠たそうなラクダ見つめないていました
  アーアーホルムズ海峡砂景色
2)ごらんあれがオマン岬南のはずれと 見知らぬアラブ指をさす
  湿気にくもる窓のガラスふいて見たけど はるかにかすみ見えません
  さよならあなた クウェイトに゙帰ります 砂の音が胸ゆする泣けとばかりに 
  アーアーホルムズ海峡砂景色

  (元歌はアブダビのようです。アブダビは湿気が多いですがクウェイトは湿気はありません。念の為)