3月10日午後地元冨来田公民館主催の「冨来田ふるさと歴史講座」の皆様13人の方々、筆者の曽祖父秀吉翁(雅号 容堂)の歴史について学ぶ為、菩提寺の本立寺にある容堂公の石碑を訪ねたあと生家である我が家を訪問されました。
まず冨来田と言う地名は、昔私の地域は馬来田村といわれていました。そして隣に富岡村という村があり、町村合併で双方の名前を取り、君津郡冨来田町真里谷となりました。今でもそのなごりは残っており小学校は馬来田小学校・富岡小学校はそれぞれあり、中学校は冨来田中学校になっています。その後更に市町村合併により、現在では、住所は木更津市真里谷となりました。
秀吉曽祖父は当家の11代目の当主です。生まれは慶応元年(1865年)で昭和4年(64歳)に亡くなりました。
筆者は我が家の14代目になります。
曽祖父母の写真
我が家を訪問され、是非曽祖父にまつわるお話をして欲しいと依頼されました。しかし私は昭和23年生まれですから当然のことながら、同じ年代には生きたことがありませんので直接的にはしりません。家に伝わるお話をさせていただきました。
幸い私の叔父(80歳)が退職記念として書類としてまとめて冊子にして頂いた資料がありましたのでその資料をもとにお話をさせて頂きました。その際、父の従兄弟になる方二人にも来てもらい補足説明をしてもらい大変助かりました。
我が家を訪れ挨拶する様子(父の従兄弟・もと高校の教師)
我が家に上がってもらい、年表に沿って説明する筆者。
略歴
慶応元年10月生まれ。
15歳まで漢学の大家であった嶺田楓江氏の格致塾で明治13年まで漢学を学んだとあります。。そして真里谷尋常小学校(現馬来田小学校)の初代卒業生として名簿に残っています。そして真里谷尋常高等小学校の訓道として教鞭をとられ、学校校舎新築に貢献されました。明治32年地元に株式会社「馬来田銀行」を創設・頭取となり地元地域のために貢献する傍ら君津購買販売組合長・馬来田実業倉庫社長を歴任し、馬来田村を中心とした農村経済の振興に務められたとあります。
当時の金庫の鉄製の重いトビラが残っています。
明治33年馬来田村村会議員、44年に郡会議員、大正元年に千葉県議会議員をしており、県内「北厚南薄論」をとなえ県会で批判した。また現在のJR久留里線の元となる、木更津・久留里間の県営軽便鉄道の誘致をしたそうです。その後馬来田村の12代・18・19代と3期村長を務め村の振興に貢献したそうです。
教育に熱心で祖父(秀吉氏の長男)恵一郎氏も地元で初の東京大学経済学部・末の男子も東京大学を卒業させたそうです。恵一郎祖父も戦前・戦後を通じて3期村長をつとめまた2期県議会議員を務めていたそうです。
秀吉氏は短歌も好まれていたようで自作の歌が今でも我が家の家訓になるものとして伝えられています。
「待てしばし 手出しもならぬ イガグリも 自ら笑みて 落つる日もあり」(以前にもこのブログで紹介すみですが)
また、旅行も好きだったようで明治の時代に伊勢神宮に行かれたときに書かれたもの(木製の板)が今でも残っていました。
先日倉庫の掃除をしていましたらなんと火縄銃がでてきました。形からしてかなり古い感じがします。かなり重たい代物です。訪問者の皆様もこれに一番関心を示しました。
更にアップしてみました。
というわけで、皆様次の訪問先があったようですが1時間半我が家に滞在されました。最後に庭先で記念写真を取りました。
私も何とか大役を果たすことが出来ました。